西からの風

フランスとイギリスで海外生活32年が過ぎました。娘は大学4年生。旦那と2人暮らし。還暦過ぎたおばさんが、覚え書きにとブログを再開しました。おばちゃんの独り言にお付き合いください。

タグ:脳腫瘍

長年行ってなかった眼の検査に行きました。

マスク厳守。 
スタッフもお客さんも全員マスクつけてた。

眼底に見られる血管が人間の体の中でただ一つ外から直接観察できるところ。 それを検査することで、目の病気はもちろんのこと、
糖尿病
高血圧
脳腫瘍 
心臓病
多発性硬化症
などの発見に繋がるという。


高血圧が高い私にとっては 
定期的に血圧を測るのと同じくらい、それ以上に重要なことなのに、
もう10年以上ご無沙汰してました。
2年に一度の検査を勧められました


いろんな器具を“渡り歩いた” 後 結果報告を受け、
ありがたいことに何の問題もなく、健康な目だと言われました。
ほっ。。。。




視力検査もしました。

私は中学1年から眼鏡をかけてます。近視です。
この2、3年、本を読むときは メガネを外します。
だってぼやけるんだもの! 読めないんだもの!

わたしの左右の目の近視の度合いは全く違いますが
左右の目の老眼の度合いは見事に同じ。 
不思議です。 



 
最近では 遠近両用メガネはもう時代遅れで
遠くを
近くを
に加えて
コンピューターのスクリーンを
という3つのバージョンが一つになったレンズがあるんですね。

メガネ屋さん、色々と説明してくれましたが、
私は、一番手頃で 昔ながらの “遠くを“  を選びました。
だって 本をよむときはメガネを外せばいいだけですから。。。
お高いレンズはパスさせていただきました。
ただの貧乏人



今もそうしてキーをたたいています。



 

父の命日。

脳腫瘍でした。 
神経膠腫(グリオーマ)と呼ばれる、脳腫瘍の中でも一番悪性のものでした。

主治医からは 
手術、放射線治療を尽くしても余命は1年。
頭を開けてみないと どのくらいガンを摘出できるかわからない。
ガンの部位によっては手術不可能で、そのまま閉じることになるかもしれない 。
と告げられました。


父は10年前に脳の大動脈瘤が破れ、くも膜下出血の手術を経験していたんです。
こんな患者さんは本当に珍しい、とお医者様からいわれました。
あの手術を乗り越えたのに、また!?
悪性?1年の命?
なんで二度も!
なんで父だけが?


父はすでに、2人の連れ合いを見送っていました。
最初の奥さん(私の母) は 白血病でした。
母が発病したのは 私が一歳の誕生日を迎える夏。

父のストレスは母の病気だけではありませんでした。

まず医療費。
もう60年も前の話です。 治療代、入院代などに加え、今のように輸血ということが普通に行われる時代ではありません。 
家族、友人に頭を下げ入院している病院に来てもらっていた。 
他人からはお金を払って血を買った。
父は親 (私の祖父母)から多額のお金を援助してもらったそうだ。

家族からの攻撃。
母の親(私の祖父母) からは罵声を浴びせられたという。
“あなたなんかに嫁にやったばっかりに娘はこんなことになったんだ” って。

職場の上司の無理解さ。
父は私を父の家に預けたけれど (祖母と父の妹が私の世話をしてくれた)、 欠勤や些細な仕事のミスなどで冷たい待遇を受けた。


昔、おばあちゃんが話してくれたことがあります。

「おばあちゃんがね、やっとヨチヨチ歩きができるようになったあなたを連れて病院に行っても、泣いたり騒いだりするから病室には長く居られなかったの。 他の病人さまの迷惑にもなるしね。 病院の近くの川沿いに歩きに出たのよ。
〇〇 (父の名前)が、あなたを肩車してね、おばあちゃんはあなたたちの後ろを歩いて。。
2人してね、泣いてるあなたをあやすこともなく 嗚咽してるだけだった。」


母は入院して5ヶ月後に亡くなりました。
24歳でした。
私の娘より3つ上でしかありません



こんな辛いこといっぱい経験してるのに、
残り一年の命だなんて、
信じられないというより
恨みました。
神様を、仏様を。
父の人生って何だったんだって?
それが運命だ、なんて割り切れるはずがない!



父は7月に手術、
その後の放射線の治療の甲斐もあって 9月には退院することができました。
クリスマスが終わり父の大好きだった忠臣蔵を見て, お正月3日あたりだったとおもいます。
再入院。


別れは、4月。
父の57歳の誕生日の2日後でした。



いつのころからか、
父が亡くなったのは 私を自由にしてくれるためだったって気になりました。

当時、私は父と一緒に暮らしていました。
父の大きな病気 (くも膜下出血) の後、幸運にも職場に復帰できましたが
その5年後継母が亡くなっていて、父が一人で暮らすという選択などできませんでした。
昭和の名残り(爆)、花嫁修行という名目で家にいました。

その頃 私は30歳手前。
父は父なりに 娘をこのままずーーーーと この家で俺の面倒をみさせるわけには...と。







父が旅出った5ヶ月後、
私はイギリスに渡りました。
それからずっと日本を離れたままです。
私は一人っ子、親もいないので
一度もホームシックにはなりませんでした。




来年の春は 父の33回忌の法事です。
日本に戻って法要します。




 

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